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樂焼450年 問い続けられた伝統と創造のドラマ

樂歴代紹介

伝統とは単に守り伝えていくものではありません。
時代の目を通して伝統の中に見据える何か。
その視点によって、伝統は新たな時代に生まれ変わります。
元祖阿米也 <生没年不詳>
 長次郎の父、中国渡来の陶工。樂焼技術が中国明時代「華南三彩」に繋がることから、阿米也は南中国福建省あたりの出身と考えられています。伝世する作品はありません。
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初代長次郎 <生年不詳~天正17(1589)>

黒樂茶碗 勾当
 阿米也(飴也)の子と伝えられています。
 茶の湯の大成者である千利休に従い赤樂茶碗、黒樂茶碗を造り樂焼を創設しました。その独創的な造形には千利休の侘の思想が濃厚に反映されており、禅、あるいは老荘思想の流れを汲む、極めて理念的なものといえます。
 長次郎茶碗の特色は、装飾性、造形的な動きや変化、あるいは個性的な表現を可能な限り捨象、重厚で深い存在感を表わしています。
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田中宗慶 <天文4(1535)~没年不詳・文禄4(1595)60歳>

黒樂茶碗 いさらい
 長次郎の妻の祖父。田中姓を名乗り、利休に常に従っていた人物とされ、大徳寺 春屋宗園、画家 長谷川等伯などとも深い交流を持っています。天正4年(1576)には京都洛中上京区南猪熊町に住まいしていた記録があり(頂妙寺勧進文書)、天下一焼物師の名をゆるされ、長次郎とともに樂焼工房を営んでいました。
 長次郎同様、利休形樂茶碗を制作、その他三彩獅子香炉などが伝世。それらには「樂」の印が押されており長次郎作のものと区別されています。ただ、すべての作品に印が捺されたわけではなく、無印のものもあると考えられています。
庄左衞門・宗味 <生没年不詳>
 田中宗慶の子。常慶とは兄弟になります。また、宗味の娘が長次郎の妻であったと誌されています(宗入文書・元禄元年)。宗味作とされる作品も伝世していますが不確かなものが多く、今後の研究課題でもあります。
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二代吉左衞門・常慶 <生年不詳~寛永12(1635)>

香炉釉井戸形茶碗
 田中宗慶の子。長次郎没後、樂焼の工房を統率し、今日ある樂家の基礎を築きました。これより樂家では代々吉左衞門を名乗るようになります。在印と無印のものがあり、樂印は徳川二代将軍秀忠より拝領したものと考えられています。東京芝・増上寺、秀忠墓陵より常慶作在印白釉阿古陀香炉が発掘されています。
 常慶の作品は造形的な動きを表し、中には沓形に変化を加えたものもあります。これは長次郎茶碗には見られなかった作行き、慶長期に流行する織部好みをいち早く取り入れていることがうかがえます。また赤黒の二種の釉に加えて白釉(香炉釉)を考案しました。
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三代道入 <慶長4(1599)~明暦2(1656)>

黒樂茶碗 残雪
 常慶の長男として誕生。別名ノンコウと称され、後に樂歴代随一の名工とされています。
本阿弥光悦と交流が深く、光悦の黒樂茶碗のほとんどは常慶、道入親子によって樂家の窯で焼かれています。
 光悦の影響もあり、道入の作風にはこれまでには見られなかった斬新な作行きが示されています。装飾性を徹底して省いた長次郎の伝統的世界に黒釉、白釉、透明釉をかけあわせるなど、装飾的な効果をモダンに融合させ、明るい軽やかな個性を表現しました。
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四代一入 <寛永17(1640)~元禄9(1696)>

黒樂茶碗 嘉辰
 三代道入の長男として生まれました。
 若い時代に見られる、道入の影響を受けた大らかな作風のものから、晩年になるに従って、長次郎の伝統に根差す侘の意識へと作振りが変わります。特に釉技においては、黒釉に朱色の釉が混ざりあう「朱釉」(しゅぐすり)を完成させ、後世に大きな影響を与えています。
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五代宗入 <寛文4(1664)~享保元(1716)>

黒樂茶碗 亀毛
 雁金屋三右衞門の子として生まれ 後、一入の娘妙通の婿養子となりました。元禄4年(1691)五代吉左衞門を襲名。宝永5年(1708)剃髪隠居して宗入と号しました。
 実父の雁金屋三右衞門は尾形宗謙の末弟であり、宗入と尾形光琳、乾山とは従兄弟にあたります。元禄時代を背景に、光琳、乾山は琳派と呼ばれる装飾性豊かな絵画、陶芸様式を完成させましたが、一方宗入は装飾性を排した長次郎茶碗の追求に自らの創作の基盤を求め、独自な作風を築き上げています。一般に「カセ釉」と称されている宗入の黒樂釉は長次郎への傾倒を最も端的に表したものです。
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六代左入 <貞享2(1685)~元文4(1739)>

赤樂茶碗 桃里
 大和屋嘉兵衞の子として生まれ、後に宗入の娘妙修の婿養子となりました。宝永5年(1708)六代吉左衞門を襲名。享保13年(1728)剃髪隠居して左入と号しました。享保18年(1733)には赤黒200碗の茶碗「左入二百」を制作するなど、隠居後も精力的に作陶を続けました。「左入二百」は特に茶人の間で珍重されています。
 他家から迎え入れられた左入は、樂焼の伝統様式を学ぶことからはじめ、樂歴代や光悦、また他の陶芸の模作を数多く試みています。それらの特色を左入は自らの作風に見事に取り入れ、多才独自な作風を完成させています。
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七代長入 <正徳4(1714)~明和7(1770)>

玉之絵赤樂茶碗
 左入の長男として生まれ、享保13年(1728)七代吉左衞門を襲名。宝暦12年(1762)剃髪隠居して長入と号しました。
 長入の茶碗はたっぷりと大振り、やや厚造りで豊かな量感を感じさせます。泰然自若とした長入自身の人柄を表すような大らかな作風です。黒樂茶碗は光沢の強い漆黒の釉調。また赤樂茶碗には白土と聚楽土が用いられ、白みの強い薄赤色から赤みの強い色まで数種の釉調を持っています。種々の香合や置物類など写実性に根ざした工芸的な彫塑作品に秀でた才がうかがえます。
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八代得入 <延享2(1745)~安永3(1774)>

赤樂筒茶碗
 長入の長男として生まれました。宝暦12年(1762)八代吉左衞門を襲名。明和7年(1770)剃髪隠居して佐兵衞と号しました。得入の名は没後25回忌の際におくられたものです。
 得入は若くして病死したため、その作品は歴代の中で最も数が少なく、ほとんどは代を譲る25歳までの若作です。父、長入の作行きの影響がうかがわれるものの、茶碗としては既に充分な完成をみせています。その魅力は伝統的な樂茶碗の様式に従いながら、そこに見られるいかにも若者らしい初々しさにあり、特に率直で愛らしい趣の赤樂茶碗には心打つものがあります。
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九代了入 <宝暦6(1756)~天保5(1834)>

赤樂茶碗
古稀七十之内
 長入の次男として誕生。兄、得入が25歳で隠居したため明和7年(1770)14歳で九代吉左衞門を襲名しました。文化8年(1811)剃髪隠居。了入と号しました。
 了入の65年にわたる長い作陶生活は極めて旺盛で、年齢を追って様々な作行きを展開しています。特に隠居後の自由闊達な作行きは了入自身の心を表しており、歳を重ねて到達した境地であるといえましょう。また、手捏ね技法における箆削りを強調したことも了入の特長です。縦横、あるいは斜めに潔く削り込まれた了入の箆は造形的であると共に装飾的でもあり、近代の樂茶碗への影響もはかりしれません。
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十代旦入 <寛政7(1795)~安政元(1854)>

亀之絵赤樂茶碗
徳川治寶侯画
 了入の次男として生まれました。文化8年(1811)十代吉左衞門を襲名。弘化2年(1845)剃髪隠居して旦入と号しました。文政2年(1819)よりたびたび紀州へ下り、徳川治寶侯、斉順侯のお庭焼きである偕楽園窯、清寧軒窯に奉仕しています。
 旦入の作行きは父、了入の篦削りを主体とした作風をさらに押し進めたもので、茶碗の各所を引き立たせる篦は多彩をきわめ、篦削りの技巧的な完成をみせています。また窯変による鮮やかな変化をみせる赤樂茶碗に特長があります。
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十一代慶入 <文化14(1817)~明治35(1902)>

黒樂茶碗 大空
 丹波の国、現在の京都府亀岡市千歳町国分の酒造家小川直八の子として生まれ、後に旦入の娘、妙國の婿養子となりました。弘化2年(1845)十一代吉左衞門を襲名。明治4年(1871)剃髪隠居して慶入と号しました。
 慶入の時代は徳川幕府封建制から明治近代制への移行の頃、西洋近代文化の移入の時代でもあり、茶の湯をはじめ伝統文化の廃れた時代でもありました。そのような逆境の中で慶入は75年におよぶ長い作陶生活を送り、茶碗以外にも茶器類また置物など歴代の中で最も多様な作域を示しています。技巧にも優れ、教養に裏付けされた瀟洒で詩情豊かな作品を残しています。
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十二代弘入 <安政4(1857)~昭和7(1932)>

赤樂茶碗 亀背
 慶入の長男として生まれました。明治4年(1871)十二代吉左衞門を襲名。大正8年(1919)剃髪隠居して弘入と号しました。弘入は15歳で家督を継ぎましたが、幕末明治の政治の変革期であったため茶道をはじめ伝統文化の衰退した時代であり、父、慶入と共に苦労の日々を重ねました。
 弘入の作行きは生涯に渡って大きな作風の変化はなく、丸みをもった温和な作行きのものが多く、独特の装飾的な篦使いがみられます。赤樂茶碗の色調は変化に富み、軽やかな赤色を呈しているのが特長です。
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十三代惺入 <明治20(1887)~昭和19(1944)>

大文字之絵茶碗
  弘入の長男として生まれ、大正8年(1919)32歳で十三代吉左衞門を襲名しました。相次ぐ戦争の時代を生き、決して恵まれた環境とはいえない中にあって書画、和歌、漢学、謡曲などに通じ、また当時としては画期的な茶道研究誌「茶道せゝらぎ」を発刊するなど茶道文化の啓蒙に尽力しました。
 惺入の作風は惺入自身の真面目な性格がそのまま窺われる伺われるように、伝統的な樂茶碗のスタイルに沿ったものといえます。釉薬の研究にも熱心で、様々な鉱石を採取して釉薬に使用するなど新しい試みを盛んに行っています。
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十四代覚入 <大正7(1918)~昭和55(1980)>

赤樂平茶碗 綵衣
 惺入の長男として生まれました。昭和15年(1940)東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業後に第二次世界大戦に従軍、昭和20年(1945)終戦後戦地より帰国し、のち十四代吉左衞門を襲名しました。昭和54年(1978)、財団法人樂美術館を設立、樂家に伝来した歴代作品や資料を全て寄贈し公開しました。
 東京美術学校において近代芸術の基礎を学んだ覚入の茶碗は、これまでの歴代の作行きとは一線を画す造形を見せています。特に立体に沿った的確な削りには構築的な力強さが感じられ、また晩年の赤樂茶碗には窯変や火替わりによるモダンな釉景色が見られます。覚入の作風の特長は伝統様式に現代性を融合させようとしたモダン性にあるといえます。
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十五代吉左衞門 <昭和24(1949)~ >

焼貫樂茶碗 白駱
 覚入の長男として生まれました。昭和48年(1973)東京芸術大学彫刻科卒業後イタリア留学。覚入の没後、昭和56年(1981)十五代吉左衞門を襲名し現在に至ります。平成19年(2007)には滋賀県守山市の佐川美術館に吉左衞門館が新設され、館ならびに茶室を自身で設計しました。
 当代の造形は、伝統に根ざしながらも現代性へと大きく踏み出しています。特に「焼貫」の技法を駆使し、大胆な篦削りによる彫刻的ともいえる前衛的な作風を築き上げています。

収蔵品紹介ページ樂家ゆかりの人々

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長谷川等伯 <天文8(1539)~慶長15(1610)>
 桃山時代の画家で長谷川派の祖。能登国七尾出身。郷里で学んだ後、京都に出て独自の画風を築きました。水墨画、花鳥画、肖像画などに優れた作品を残しています。文禄4年(1595)、田中宗慶の依頼によって「利休座像(春屋宗園賛)」<表千家蔵>を描くなど樂家とは深いかかわりがあります。
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樂道樂 <生没年不詳>
 樂家三代道入の弟。堺にて樂茶碗を焼いたとされ、左字の樂印(鏡に映ったように左右が逆になった字体)を用いたと伝えられていますが判然としません。
 現存する道樂茶碗は作行きが一定しておらず、印字体にもかなりの違いが見られ判然としないところもあります。
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本阿弥光悦 <永禄元(1558)~寛永14(1637)>
本阿弥家の家業は刀剣の鑑定・研磨などですが、一方で広い範囲に及ぶ芸術活動を展開しました。元和元年(1615)徳川家康より京都・鷹峯の地を拝領し移り住んだ頃より、樂家二代常慶、三代道入の手を借りて茶碗の制作を始めたとされています。樂家には土や釉掛けなどを依頼する光悦からの書状も残されています。
光悦茶碗は総じて手遊びの自由な発想によって造られた大らかな作風が感じられます。その中でも特に黒樂茶碗は、その釉薬などからみて、ほぼ全てが樂家の窯で焼かれたものと考えられています。
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玉水焼 初代 一元 <寛文2(1662)~(1722)>
 樂家四代一入の庶子。十代後半までは樂家で育ちましたが、後に母の郷里である玉水村(現在の京都府綴喜郡井手町)にて玉水焼を開窯し、主に茶碗の制作をしました。樂印が捺された作品もあります。その後玉水焼は一元の血統が途絶えた後も幕末の頃まで続きましたが、現在は閉窯となっています。
 一元の茶碗は一入の朱釉などの釉調を倣っており、一入の作品と混同されている例も少なくありません。しかしながらその作風には大きな歪みや力強い篦などが見られ、一入とは異なった趣が感じられます。
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尾形乾山 <寛文3(1663)~寛保3(1743)>
 京都の呉服商、雁金屋・尾形宗謙の三男として生まれました。次兄は光琳。樂家の婿養子五代宗入は従兄弟にあたります。陶技は野々村仁清に師事。元禄12年(1699)、京都に鳴滝窯を開きました。晩年も江戸に下り作陶を続けています。
 宗入が利休や樂家初代長次郎に思いを寄せ侘びの世界を追求したのとは対照的に、乾山は華やかな色絵陶で一世を風靡しました。また銹絵の茶碗も多く残しています。
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